相続は自分にとって、とても近い人の“死”によって生じる事が多い。
しかし、手続きはとても機械的に行われます。ともすれば“心”が流される事さえあります。ここで、日本人のいにしえからの死者を悲しみ悼む“心”を思い出してみたいと思います。折口信夫訳『口訳万葉集』は素晴らしく、また分かりやすい文です。そこから触れて行きたいと思います。
(出典、新装版日本古典文庫2・3。万葉集上・下。折口信夫訳。河出書房新社)
秋津野に朝ゐる雲の失わせぬれば、昨日も、今日も、亡き人思ほゆ
(万葉集1406雑の挽歌)
秋野野に朝懸っている雲は、火葬の煙である。
その煙が消えてしまうと共に、この世の形は失われてしまうのだ。
ああ昨日も今日も、止む間なしに、死んだ人のことが思い出される。
鏡なす我が見し君を、阿婆(あは)の野の花橘の、玉に拾いつ
(万葉集1404雑の挽歌)
鏡のようにいつも見ていた君であるのに、
この阿婆の野の花橘を薬玉に貫くために拾うように、手に拾うた。
すなわち火葬して、骨を拾うた。
秋津野を人のかくれば、朝撒きし君が思ほえて、嘆きはやまず
(万葉集1405雑の挽歌)
秋津野の話を人が為出すと、あの朝、灰を撒いて風葬した、
あの人のことが思われて、嘆息が止まらない。
隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山に霞み立ち、たなびく雲は、妹にかもあらむ
(万葉集1407雑の挽歌)
火葬場なる泊瀬(はつせ)山に、ぼんやりと立って、横に長く懸っている雲は、なくなったいとしい人の煙であるのだろうよ。
禍言(まがごと)か妖言(およづれごと)か。隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山に、いほらせりとふ
(万葉集1408雑の挽歌)
人がお前の恋しい人は、墓場の泊瀬(はつせ)の山に住んでいると言うが、それはおそらく、不吉な人の心をまどわす偽言に相違ない。そのようなことがあるものか。
秋山の紅葉あはれみ、うらぶれて、入りにし妹は、待てど来まさず
(万葉集1409雑の挽歌)
秋の山の紅葉に心とられて、這入って行ったいとしい人は、自分がしょんぼりと待っていても、帰って来て下さらない。(山に墓があるから言うたのだ。)
世の中は、誠(まこと)、二世(ふたよ)は行かざらし。過ぎにし妹に逢わなく、思へば
(万葉集1410雑の挽歌)
この世界というものは、二度生まれて来られぬもんだと言うが、死んだいとしい人に逢わないことを思うて見ると、実際そうに違いない。
幸福(さきはひ)の如何なる人か。黒髪の白くなる迄妹が声聞く
(万葉集14011雑の挽歌)
自分はただ一人だ。それにこの世には、そうでない人がいる。そういう人は、どうした幸福な人なんだろう。髪が真白になるまで、いとしい人と話をすることが出来るというのは。(傑作)
吾が夫子(せこ)を何処(いづく)行かめと、割竹(そきたけ)のそがひに寝しく、今しくやしも
(万葉集1412雑の挽歌)
あの晩腹立ちまぎれに、背中合わせに寝て、あの人が出て行くと言うたのを、どこへよう行くものか、と悔って、そのまま寝ていたことが、死んでしもうた今では、取り返しがつかない。残念なことだ。(佳作)
庭つ鳥鶏(かけ)の垂り尾の乱尾(みだりお)の、長き心も思ほえぬかも
(万葉集1413雑の挽歌)
庭に飼う鶏の尾のように、長くいつまでも、身を持ちこたえられそうな心がせぬ。こういう風では。
こもまくら相枕(ま)きし子もあらばこそ、齢(よ)の老(ふ)くらくも、我惜しみせめ
(万葉集1414雑の挽歌)
手枕を交わして寝た、あのいとしい人が、生きていてこそ、年の行くのも、自分は惜しむだろうが、このような独り身では、早く年寄った方がよい。
たまづさの妹は玉かも。あしびきの清き山辺に撒けば、散りぬる
(万葉集1415雑の挽歌)
いとしい人は、玉になってしもうたのか、このさっぱりした景色の山の辺に撒いたら、散ってなくなってしもうた。(これも、「秋津野を人のかくれば」と同じ風俗に基いている。悲哀な調子を具えた佳作。)